Franco Biondi Santi dies at 91
- Day:2013.04.08 21:49
- Cat:わいんにゅーす<Wine News>
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↑ ということで今日は月曜日ですが営業しております。
昨日の続きを書こうと思ったのですが、フランコ・ビオンディ・サンティが91歳で亡くなったというニュースを見たのでそちらをのニュースを先に訳してみました。
相当な頑固な超カリスマな方として有名でしたよね。
前にも書いたような気もしますが、何年も前に訪問したことがあります。もちろん、こんな下々の者の訪問には御大はお出にならないのですが、説明してくれた方の雰囲気からも「あー難しい方なんだなぁ」という雰囲気が伝わってきました。
最近はあまりビオンディ・サンティって見かけなくなりましたね。あるところにはちゃんとあるのかな?そういうウチのセラーにも1本眠っているはず。自然派に傾倒した今飲んだらどんな風に感じるのか興味ありますが、もうちょっと寝かせておきます。
謹んでご冥福をお祈りします。
Franco Biondi Santi dies at 91
http://www.decanter.com/news/wine-news/583783/franco-biondi-santi-dies-at-91
(記事後半は折りたたんでありますので続きを読むをクリックしてください。)
ブルネッロ・ディ・モンタルチーノの偉大な開拓者のうちの一人の孫にあたるフランコ・ビオンディ・サンティが91歳でこの世を去った。
BBS11として知られているサンジョヴェーゼ・グロッソのクローンを初めて分離させ、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノとその最初のアペラシオンの基礎を築いた功績を称えられているテヌータ・グレッポのフェルッチオはビオンディ・サンティの祖父である。
フランコの父、タンクレディ・ビオンディ・サンティがやがてグレッポを引き継ぎ、その後フランコ自身の手に移った。彼のワインは、Kerin O’Keefe が先ごろデキャンター誌のイタリアの50の偉大なワインリストで明らかにしているように、「イタリアで最も皆が欲しがる追うかなボトルである」。
「このようなトラディショナルなスタイルのブルネッロは、つい最近まで果実味優先のオークの強いワインを好んでいたワイン評論家たちの間では流行遅れとされていたが、一方 傑出したエレガンスを好む忠実なファンたちは良い年にしか造られないという1万5千本のビオンディ・サンティ・レゼルヴァを奪い合うことを止めることはなかったのである。緻密で複雑な1975年を含むフランコ・ビオンディ・サンティが自分でボトリングしたワインは今まさに真価を発揮しつつあるが、それでも驚くほど若い。」
「サン・ジョヴェーゼの父」である彼自身も自分のワインの価値をよくわかっていた。2001年にボルドー1級がまだあのような極みを夢みていた頃、彼は自分の1977年リゼルヴァに400ユーロの値段をつけたのである。
彼はバイヤー達を怖気づけさせたかったのである。「私は17000本にも満たないレゼルヴァしか造っておらず、だから一族のワイン庫にリリースするのに十分な(?)かつ未来の世代が楽しめるだけのものを確保しておきたいのだ。」と話している。
ビオンディ・サンティはトスカーナでは過去も今も崇拝を受けてきた。ブルネッロ協会の会長であるFabrizio Bindocciは、彼は「イタリアワインの品質の高さと卓越性の象徴であり、・・・国際レベルでのブルネッロの成功をおさめた事業家の一人でもあった」と語る。
「フランコ・ビオンディ・サンティの死はモンタルチーノで、イタリアで、そして世界で大きな悲しみとなるだろう。」とスペインのウェブサイトEl Mundo Vino と語り、Silvio Franceschelli市長は「常にモンタルチーノを一番に考え、世界でその地位を確立してきた」と言う。
1922年生まれのビオンディ・サンティは彼の長いキャリアの間で多くの議論の対象となってきた。サンジョヴェーゼ純粋主義者であり、息子のジャコポとは不仲となり、彼は1990年代初頭にグレッポを去り、彼自身のワイン、Sassoalloro、Schidione、Rívoloを造るに至った。
亀裂は長年をかけて修復されたのではあるが、Margaret Rand がジャコポとの2012年のインタビューで示唆しているようにその原因はいまだにはっきりしない。
「どれだけ伝統かモダンかで争おうとも、どんなにそれが性格的なものに所以すると明らかであっても」父親と息子は単に正確に似すぎているからうまくやっていくのが難しいものという理論で結論づけている。
彼は、息子のモダニゼーションへの傾倒にはついていけなかったのかもしれないが、非常に長熟かつピュアでエレガントなブルネッロ・ディ・モンタルチーノへのの献身にも関わらず、フランコ・ビオンディ・サンティ自身も変化を受け入れる用意はできていた。
2008年のあの悪名高い混醸スキャンダルの間に、ビオンディ・サンティ、コル・ドルチアを含む沢山の有名な生産者がメルローをブルネッロに加えたと告発された際(その後疑いは晴れたが)、少なくとも下のレベルのロッソ・ディ・モンタルチーノに関しては、外来品種を加えるメリットはあると彼が語ったのである。
「私はモンタルチーノという土地を熟知しており、他の品種(メルローなど)を少量加えることによって、数パーセントではあるがワインにバランスが生まれるだろう」と2011年にデキャンター.comにメールをおくってきたこともあった。
フランコ・ビオンディ・サンティは今妻のマリア・フローラ、息子と娘のジャコポとアレッサンドラ、そして孫たちのもとを去って行ったのである。